さて、長らくお待たせいたしました!!「OS技研伝説 Vol.3」
続編を心待ちにされていた皆様、第3話のスタートです。今回は、いよいよ現OS技研会長の岡崎青年が4輪に向けて始動します…。
文・画像ともに提供はOS技研の“トミタク”こと富松です。それではスタート!!
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昭和30年代後半はまだまだ自動車なんて高嶺の花で、手に入れて(しかも趣味での入手などごく少数)乗っている人は少なかったのですが、いよいよ昭和40年、日本のスポーツカーのオープニングイヤーの幕開けです。
各社、魅力的なスポーツカーを市販し始め・・・
・トヨタ・・・スポーツ800
・ホンダ・・・スポーツ500,600
・日産・・・・シルビア、フェアレディSP
・プリンス・・スカイラインスポーツ
・いすゞ・・・べレットGT 等々
それと同時に花開いたのがモータースポーツです。
1962(昭和37年)年には三重県に鈴鹿サーキット、1966(昭和41年)年には静岡県にフジスピードウェイという、ともに国際級の本格的サーキットがオープン。
それに目をつけた岡崎青年は「よし!いよいよ4輪に進出じゃっ!!」と意気揚々と開発に着手しました。
昭和42年、ホンダから当時のヤング(!)に絶大的な人気を誇った軽4輪車N360が発売。このエンジン&ミッションを利用したフォーミュラーーカーを当時の仲間数人で製作しました。
このフォーミュラーマシーン、当時若者に人気のあったレースカテゴリーでFLレースというのがあり、それに照準を合わせて製作されました。
最初に作った車(前方からと後方からの画像)
芸術的なパイプフレームワークは、2輪車で培った技術を投入。エンジンもホンダだけあってかつてのCB72のバイクエンジンのチューニング理論での製作。
カウルは一枚物のアルミ板を板金で製作していくような構造です。当時は市販の素材など皆無で皆、手作りで車体を製作していました。結果、好成績を残しまして4輪業界でも注目されるようになっていきます。
ただ、レースはお金を生まないという言葉通り、資金面では相当苦労しています。
その頃くらいからでしょうか…。「よし!自分の会社を作ろう!」と一念発起した岡崎青年。
『岡崎スピード技術研究所』を設立し、レーシングカーの研究を開始しました。1970(昭和45年)年頃です。
日本ではまだまだこのような形態の仕事の分野など皆無でレーシングカーやレーシングエンジンの製作は自動車メーカー直系のレーシング部門での製作が主でした。
岡崎スピード技術研究所の良いところは、日本中の各自動車メーカーのエンジンを公平な目で全て見られるような立場にあったため、自動車メーカーのそれぞれの考え方や技術力の違いを客観的に見ることが出来たというところにあります。
それは今のオーエス技研にも言えることで、今では世界中の自動車パーツを見ることが出来るため、数々の新しいアイデアが浮かんできますね。
そこで岡崎研究所所長は決意します!!
「メーカーのエンジンを改造するのではなく、思い通りのエンジンを自由に作ってみたい!!」
いよいよ日本の自動車工業史に残るTCシリーズの研究を開始します。1972(昭和47年)年頃のことです。
1974年に試作機、翌1975年に完成したのがTC16-MA1型エンジンです。
まさに歴史的瞬間です。
この完成と同時に会社名を『オーエス技研』に変更。
(岡崎スピード技術研究所⇒OkazakiSpeed→OS)
一つの思いをブレることなく形にしていくことは変わらず継承されました。
いま、このモノにあふれた時代でも…筆者がこの世界にはいり、やっと10年で少しモノが見え始め…20年でなんとかなり始めたような世界の中、岡崎会長は何もない戦後の混乱期から、創意工夫を繰り返して色々なものに触れて経験…その超人的な努力を繰り返してきたことは驚愕に値すると思います。
そしてそのことが会長自身の人間の幅にも繋がっていると確信します。
次は「オーエス技研」をたちあげた岡崎社長が、いよいよ商売としてエンジンなど部品の製作にのめりこんでいきます!
乞うご期待!!
OS技研公式HP
http://www.osgiken.co.jp/top_j.html
OS技研公式Facebook
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●社 名: 株式会社 オーエス技研
●所在地: 〒702-8001 岡山県岡山市中区沖元464
●創 業: 1973年
●設 立: 1988年4月8日